
新緑の季節。草木は生い茂りとても力強いものを感じる。だが、それは庭の草木も同じですさまじい勢いで成長をしていく。
そこで今日は庭の清掃を行った。伸びに伸びた雑草。積もった落ち葉。それらを片づけているときにいろいろと考えた。
自然はいつも無言で教えを与える、不思議な存在だ。
特になにかぼんやりと、頭の片隅に悩みや考えがあるとその”教え”がスッと入ってくる。いや、感じるという表現が適切かもしれない。
自然は非情だ

古くなった葉は枯れ、地面に落ちていく。それが、彼を生かすために真冬も日光を浴び栄養を作っていたにも関わらず。
これはなにも植物が無慈悲だからではない。”必要”だからである。古くなったものを捨て、新しい命を迎えるために必要な行為なのだ。

そこに”執着”や”情”は存在しない。文字通り自然のことなのだ。
翻ってわたしたち人間は、もはや必要のないものを大切にし過ぎ、余計な苦しみに悩まされていないだろうか?
変化は苦痛だが必要なこと
もはや興味のない仕事、留まる理由のない場所、付き合う必要のない人物。
心では不要だと思いながらも現実として、または頭で考えて捨てることができないでいる。
こう書くととても薄情だが、一人の持てるパワーには限りがある。
「なにかを行うには、なにかを行わない必要がある」
つまり、いまある葉を落とさないと、新芽を生やすことはできないのである。そして、その行為がより長く生きるために必要なのだ。
人間に当てはまるように言い換えれば、それまでの関係や環境を変えることがより良く生きるために必要な時もあるということ。
もちろんその行為や決断には苦しみが伴うだろう。しかし、仮にそれが”必要”だと知っていれば乗り越えられるのではないか。
自然体で生きていきたい
決断には勇気が必要だ。大きな決断には、それ相応のものが必要。
代わりに得られるのは、新しい環境と自分の欲した関係。あるい新しく割り振れるパワーと時間。
すべては天秤にかけられていて、無意識に自分の欲する方向へと進もうとしている。
その推進力を意識で止めようとすることが苦しみの一つなのかもしれない。パワーとパワーがぶつかるところにはストレスが発生して当然だからである。
わたしは自分の気持ちが求める方向に沿って進んでいきたい。
一本の木が非情にも不要な葉を落として新しい葉をもつように。その行為が幸せへの歩みだと今日は教えられた。